YS-11
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NAMC YS-11
YS-11は、日本航空機製造が製造した双発ターボプロップエンジン方式の旅客機。第二次世界大戦後に初めて日本のメーカーが開発した旅客機である。正式な読み方は「ワイエスいちいち」だが、一般には「ワイエスじゅういち」、または「ワイエスイレブン」と呼ばれることが多い。時刻表ではおもにYS1またはYSと表記されていたが、全日本空輸の便では愛称『オリンピア』の頭文字Oで表記される場合が多かった。
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[編集] 名称
機種名であるYS-11の「YS」は輸送機設計研究協会の「輸送機」と「設計」の頭文字「Y」と「S」をとったもの。一方、「11」の最初の「1」は搭載を検討していたエンジンの候補にふられた番号で、実際に選定された「ダート10」の番号は「1」であった。後ろの「1」は検討された機体仕様案の番号で、主翼の位置や面積によって数案が検討されていた。機体仕様案の中には第0案もあった。
こうした命名の経緯もあって、当初、関係者のあいだでは「ワイエス・いちいち」と呼ばれていたが、いつしか、「ワイエス・じゅういち」と呼ばれるようになったが、双発機で異なるタイプのエンジンを1基ずつ搭載することはないので、この資料の信憑性は低いと思われる。 旅客機製作に理解を求めるため(と同時に国からの予算獲得のため)、1958年(昭和33年)12月11日に日本飛行機の杉田工場で(モックアップ)を完成披露した。試作機の予算を獲得するためのデモンストレーションであり技術的な検討を目的とするものではなかった。このため、客室の艤装に力を入れ、航法士席や二つの化粧室を設け、内装は当時の有力デザイナーの渡辺力に依頼して、西陣織の座席が設置された。この座席は当時の価格で一席50万円以上したと言われている。
そのときのキャッチフレーズが「横浜・杉田で11日に会いましょう」であった。これはYに横浜、Sに杉田、11に合わせて公開日を11日にしたジョークの一種であるが、これによって名前の由来を誤解させてしまうこととなった。このモックアップを作るのにかかった費用は5500万円(当時)で、点滅ランプの機構が用意できなかったため、担当者が隠れてスイッチを入れたり切ったりしていた。
[編集] 歴史
[編集] 国産旅客機計画
1952年(昭和27年)に日本が連合国の占領下から再独立し、GHQ SCAPによる日本企業による飛行機の運航や製造の禁止が一部解除されて数年、日本の航空路線は、ダグラスDC-3やDC-4、コンベア440などのアメリカ合衆国製やデハビランド DH.114 ヘロンなどイギリス製の航空機が占めており、日本製の航空機を再び飛ばしたいというのは、多くの航空関係者の望むところであった。このため、国内線の航空輸送を外国機に頼らず、さらに海外に輸出して、日本の国際収支(外貨獲得)に貢献することを目的に国産機開発の計画が立ち上がった。当時は運輸省で民間輸送機の国内開発の助成案と通産省による国産機開発構想があり、行政の綱引きの対象となって権限争いが行われていた。閣議了承により、運輸省は対空・型式証明までの管轄、通産省は製造証明と生産行政の管轄の二重行政で決着した。
国内線用の旅客機の本格研究は新明和工業で始まっていた。1956年(昭和31年)に運輸省が発表した「国内用中型機の安全性の確保に関する研究」の委託を受けて基礎研究を行っていた。この研究で後の設計に参加する新明和の菊原静男、徳田晃一の両氏によって行われた。この研究はDC-3の後継機種の仕様項目を研究するもので、レシプロエンジン双発の第一案(36席)、第二案(32席)、ターボプロップエンジン双発の第三案(52席)、第四案(53席)の設計案が提案され、最適とされた案は第三案とされ、その後のYS-11の叩き台となった。
1957年(昭和32年)に日本企業による飛行機の運航や製造の禁止が全面解除される事を見越し、1956年(昭和31年)に通商産業省(現・経済産業省)重工業局航空機武器課の主導で国産民間機計画が打ち出された。翌年から専任理事に木村秀政日本大学教授を迎えた「財団法人 輸送機設計研究協会」(通称「輸研」)が設立されて、小型旅客輸送機の設計が始まった。
輸研には、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)や雷電、烈風を設計した新三菱の堀越二郎、中島飛行機で一式戦闘機(隼)を設計した富士重工業の太田稔、川西航空機で二式大艇や紫電改(及び紫電)を設計した新明和の菊原静男、川崎航空機で三式戦闘機(飛燕)や五式戦闘機を設計した川崎の土井武夫といった、戦前の航空業界を支えた人物が参加、設計に没頭した。航空業界ではこれに航研機を設計した木村秀政を加えて「五人のサムライ」と呼んだ。
設計案として、日本の国内線需要を勘案して、1200mの滑走路で運用できるもの、航続距離は500マイルから1000マイル、整備性から低翼、経済性から60席以上、双発ターボプロップエンジン、開発期間は5年、開発費用は30億円の基本設計で固まった。
[編集] 日航製設立
モックアップ公開後、日本政府主導で設立された日本航空機製造 (NAMC) に開発が引き継がれた。「五人のサムライ」は実機製作には携わらないと宣言したため、1960年(昭和35年)からの実機製作は三菱から技術部長として出向してきた東條輝雄に任せられた。東條は父親で陸軍大臣や首相を歴任した東條英機の勧めで軍人ではなく技術者を目指し、かつて堀越の元で「零戦」の設計にも携わっていた。
中型輸送機開発を正式に決定すると、アメリカのコンベアやオランダのフォッカー、イギリスのBACなど欧米の航空機メーカーが自社との共同開発、もしくは自社機のライセンス生産への参画(つまり独自開発の計画中止)を求めて殺到した。これらの企業はみなDC-3の後継となる機体の開発計画を持っており、競合機種が増えることを望まなかったからである。特にフォッカーは自社のF27 フレンドシップと日本の機体の規模が競合するためにしつこく食い下がってきたが、これらを通産省はすべて一蹴した。
[編集] 機体製造
機体は中型とし、レイアウトに余裕が持てるように真円部分を長く設計した。主翼は、整備性の良さや着水時に機体が浮いている時間が長くなる事を考え、胴体の下に翼がつく低翼に。また、地方空港を結ぶことを目的としたため、1200m級の滑走路で離着陸が可能な性能をもたせることとした。製造は新三菱重工(現三菱重工業)、川崎航空機(現川崎重工業)、富士重工業、新明和工業、日本飛行機、昭和飛行機、住友精密工業の7社が分担し、最終組み立てを三菱の小牧工場が担当した。
各社の分担内容は以下のとおりである。
- 三菱(分担率: 54.2 %) - 前部胴体、中部胴体、
- 川崎 (25.3 %) - 主翼、エンジンナセル(エンジンの覆い)
- 富士 (10.3 %) - 胴体先頭、圧力隔壁、垂直尾翼、水平尾翼
- 日飛 (4.9 %) - 床板、補助翼、フラップ
- 新明和 (4.7 %) - 後部胴体、翼端、ドーサルフィン(垂直尾翼前方の安定翼)
- 昭和 (0.5 %) - 操縦席、主翼前縁
- 住友 (0.1%) - 降着装置
エンジンは耐空証明の取得に困難が予想されたため自国での開発を諦めた。方式としては、当時主流になりつつあったターボプロップエンジンを使用し、イギリスのロールス・ロイス製ダート 10を採用、プロペラはダウティ・ロートル製の4翅、当時の日本に手が出せなかった(試作はしたが実用性は低かった)電子機器もほぼ全て海外製品を輸入した。当時、国内での調達が困難だった大型のジュラルミン部材はアメリカのアルコア社から購入した。
[編集] 試作機
強度試験機01号機(静荷重試験用)・02号機(疲労試験用)は1962年(昭和37年)7月から試験が開始された。1965年(昭和40年)4月までに、世界でも例のない20万回を越える疲労試験が行われ、胴体は22万5000時間のうち9万時間まで、主翼は18万9000時間のうち6万4000時間まで全く無傷であり、その後のひび割れも伸びが遅かった。一般の旅客機の強度は2倍から4倍に設定され、合理的かつ効率的に設計・製造が行われる(バリューエンジニアリング)が、耐用3万時間を目標としたYS-11は、そのような合理的設計とは無縁であった。そのうえ実際の強度は目標よりもはるかに強度が高く主翼は75年から95年分、胴体は90年から110年分飛行したとしても大丈夫[1]という予想を上回る設計強度を持っていた(戦前日本が開発した民間輸送機は実質的には1936年の中島AT-2が最後で、YS-11クラスの機体の経済的強度の目安というものが良くわからなかったこともある)。後に「過剰強度」という批判もあったが、一方では寿命の長い航空機として評価された。
飛行試作機1号機(1001)は1962年(昭和37年)7月11日に三菱小牧工場でロールアウトした。1ヶ月に渡る電子機能検査、平衡試験、燃料試験、プロペラ機能検査、超短波(VHF)検査を経て、8月14日にエンジンに初点火し、8月25日からは滑走路での地上試験、ブレーキテストを行った。8月30日、日航製は200人以上のマスコミを招き、実況中継放送が行われる中、1号機は初飛行した。「YS-11 PROP-JET」と描かれた機体には、テストパイロットとして正操縦士に飛行整備部飛行課長の近藤計三、副操縦士に長谷川栄三が搭乗、名古屋飛行場から伊勢湾上空を56分間飛行し、各種試験およびマスコミへのデモンストレーションは成功裏に終了した。10月には全日本空輸との間で20機の予備契約が調印され、量産を開始した。
[編集] 問題と克服
しかし、すでにこのときから操縦性の悪さが露呈していた。12月18日には皇太子明仁親王(今上天皇)を招いての完成披露式典が羽田空港で開かれ、その数日後に試作機2号機(1002)が初飛行を実施、2機による本格的な飛行試験が開始されたが、空力特性が悪いために振動と騒音が発生し、性能にも重大な影響を与えていた。横方向への安定不足は特に深刻で、プロペラ後流によって右方向へ異常な力が働き、全ての舵が効きが悪く、操縦性は最悪の癖を抱え、試験中にきりもみを起こして墜落しそうになることもあった。いわゆる「三舵問題」である。
これらは、輸出に必要なアメリカ連邦航空局(FAA)の審査でも問題が指摘され、大規模な改修を余儀なくされた。この改修が予想以上に手間取ったため、マスコミからは「飛べない飛行機」などと散々にこき下ろされた。全日空は納入の遅れがはっきりしたため、競合機種であったフォッカーF27 フレンドシップの方を導入した。
初飛行を見届けて三菱に戻っていた東條も問題解決のため再び日航製に復帰し、改修作業に加わった。横安定については主翼の上反角を4度19分から6度19分に持ち上げればよいとの結論を出したが、設計の変更と再組み立てには1年かかると見込まれた。そこで、川崎の土井の提案により主翼の付け根に角度2度のくさびを打ち込む形で上反角を変更した。操縦性の悪さは方向舵と昇降舵のバランスタブを新考案のスプリングタブに変更、右偏向はエンジン取り付け部の後ろに三角形の突起(通称、三味線バチ)を取り付けることで解決、またステアリングの効きを良くするために、主脚を後方へ傾斜させ、車輪の位置を後退させた。
これらの大改修により、FAAの再審査で当時としては難しい片発離陸(離陸直後のエンジントラブルで片方のエンジンが停止しても安全に離陸できるかを試すテスト)を成功させ機体の性能の高さを立証、来日した審査官も大改修したYS-11が基準を満足している旨をコメントした。
1964年(昭和39年)8月に運輸省(現国土交通省)の型式証明を取得し、国内線向けの出荷と納入を開始した。初飛行から型式証明取得まで、1号機の試験飛行は540時間、2号機は460時間であった。9月9日には全日空にリースされた2号機が東京オリンピックの聖火を日本全国へ空輸し、日本国民に航空復活をアピールした。1965年(昭和40年)3月30日に量産1号機(2003)を運輸省航空局に納入、4月からは航空会社への納入が始まった。9月にはFAAの型式証明も取得して輸出の体制が整った。
ところが、YS-11-100は運航が増えるたび、主脚の異常、脚開平扉の設計ミス、外板継ぎ目からの雨漏りによる電気系統不良などの欠陥が判明。そのたび、日航製職員や航空会社の整備士は改修のため徹夜の連続となった。この経験は、1967年(昭和42年)のYS-11A(2050以降)の設計に生かされた。1968年(昭和43年)にはトラブルもほとんど解消し、1機あたりの飛行時間は月300時間以上、定時出発率99パーセントを誇る、高い信頼性を持つ航空機となった。
[編集] デモ飛行
無名で実績のない日航製が海外で販売するには実機を見せるほかに宣伝の手段はなく、YS-11は積極的に海外へ飛行し、デモンストレーションを行った。まず、1966年(昭和41年)9月15日から10月13日にかけて北米へ渡航、アメリカ合衆国のサンフランシスコ・デンバー・セントルイス・ワシントンD.C.・マイアミを飛び、近距離路線を運航する中堅航空会社であるピードモント航空やハワイアン航空からまとまった数の受注を得ることができた。
1967年(昭和42年)は1月25日から3月15日にかけて南アメリカのペルー・アルゼンチン・チリ・ブラジルをデモ、10月11日と12日にベネズエラ、12月2日から12日にカナダ、1968年(昭和43年)8月27日から10月28日にかけてはイギリス・西ドイツ・スウェーデン・イタリア・ユーゴスラビア・ギリシャ・サウジアラビア・パキスタン・ネパール・ビルマ・タイ・マレーシアを精力的に回ったが、アジアの多くの途上国では購入予算が無いため受注をほとんど得ることはできなかったが、その後ブラジルやアルゼンチン、ペルーでまとまった数の受注を獲得した。しかし、ヨーロッパでは競合機が多いため、ギリシャのみの受注となった。
1969年(昭和44年)にも2月27日から3月1日にメキシコ、12月3日から1970年(昭和45年)2月14日にかけてモロッコ・セネガル・カメルーン・ガボン・ザイール・中央アフリカ・ザンビアを飛行、同時に1月18日から22日にシンガポール、6月20日から7月9日にかけてエジプト・ケニア・スーダン・南アフリカ、7月28日から8月3日に南ベトナムのサイゴン(ベトナム戦争中)へ飛行し、いくつかの受注を獲得することができた。
[編集] 相次ぐ受注
デモフライトが効果を呼び、アメリカを中心に知名度が高いピードモント航空からオプションを含む20機の発注により信頼を得たことも手伝って、アメリカやブラジルを中心として海外からの受注が相次いだ。生産数は徐々に伸び、1967年(昭和42年)末には小牧工場は月産1.5機から2機に増産した。1968年(昭和43年)末に確定受注が100機を超え、この年だけで50機以上を新たに受注した。1969年(昭和44年)4月17日には全日空に量産100号機(通算102号機)を納入し、輸出は7カ国15社に達した。7月には当初の量産計画(150機)を上回る180機の量産計画が認可された。小牧工場は月産3.5機となり、順番待ちで発注から納入まで1年以上かかることもあった。しかし、この好調な海外販売がその後の生産中止を招く結果となった。
[編集] 生産終了
安定的な販売網の構築を待たずに売上は伸びなくなった。特に海外販売では競合国並の長期繰り延べ低金利払で対抗せざるを得なくなったことや第二次世界大戦後の日本では初めて作った機体のため、実績不足から足元を見られて、原価を割った値引き販売を余儀なくされることもめずらしくなかった。また、宣伝費などの販売、営業関連費を初期コストの中に換算していなかったなど、原価管理も杜撰であったと言われている。加えて、航空機製造各社の寄せ集め所帯であったことで責任の所在が曖昧となり、納入部品価格の引き下げもままならず、官僚の天下りが増加したことで社内に公務員気質が蔓延し始め、抜本的な経営改革が行われず赤字を加速させて行った。
赤字は積み重なり、国会においてこのことを追及されると、1971年(昭和46年)12月28日の国会で政府(佐藤栄作内閣)はYS-11生産中止と日航製の解散を決定、1972年(昭和47年)末に販売を終了した。この時点でYSの民需は145機、競合機ホーカー・シドレー HS748は118機で、YS-11はフレンドシップに次ぐ売り上げであった。YSは総数182機を生産し、昭和47年度末(1973年3月)に生産終了となり、技術を伝える後継機計画が進まないまま、1982年(昭和57年)8月1日に営業権を三菱重工に譲渡し、1983年(昭和58年)3月23日に日本航空機製造は解散した。欧米の競合機は生産が続いた。その後のアフターサービスは三菱重工業が請け負っている。現在でもこの決定は批判が多く、日本から新たな国産飛行機が生まれない一番の要因であると言われている[要出典]。
日本航空機製造の経営赤字は1966年(昭和41年)の航空機工業審議会の答申で既に提言されていた。1970年(昭和45年)3月末で80億円の赤字、1971年(昭和46年)3月末で145億円の赤字となっていた。このため航空機工業審議会では銀行代表団による日航製経営改善専門委員会が設けられ、赤字の要因と今後の対策が検討され、通産大臣に答申された。その内容は量産180機とその後の10年間のアフターサービスで360億円の赤字が発生すると計算された。赤字の内容は、①売上の減少(早期の生産打ち切りの公表による買い叩きと競合機との価格競争で販売価格の値引きによるもの)で31億円、②補用品の売上が予想を下回ったことで40億円、③販売費の増加で31億円、④金利負担増により94億円、⑤為替差損で153億円、⑥原価上昇で11億円とされた。 この赤字は日航製の資本金78億円の取り崩し、政府負担金245億7700万円、航空機製造各社の負担金36億2300万円で処理された[2]。
戦後日本の民間航空機工業の振興は通産省の主導だけで、競合国と比較して助成や制度が不備であったことで長期的な販売戦略た立てられず生産中止に追い込まれた結果となった。航空機の製造販売には長期的な粘り強い営業戦略が必要だったことである。日航製が解散したことで、航空機の設計、製造だけでなく販売・アフターサービスのノウハウの次世代へ継承が行われず、その後の航空機の設計・製造・販売能力を自ら放棄してしまったことになった。
[編集] 日本国内定期路線からの引退
定期運行に処する航空機体への空中衝突防止装置(TCAS)の装備を義務づけた航空法改正により、改修経費の関係で2006年(平成18年)9月30日のラストフライトをもって日本国内の民間定期路線より引退した。
日本国内の民間定期路線のYS-11の最終便は、日本エアコミューターが2006年(平成18年)9月30日に同社が最初にYS-11を飛ばしたのと同じ沖永良部空港~鹿児島空港でのフライトが、沖永良部発15:55に行われ就航以来無事故での運航完了となった。なお、9月30日の引退の時まで運航していたのは、日本エアコミューターの福岡~松山、高知、徳島、鹿児島の4路線であり、松山、高知の2路線は9月29日の福岡行きが最終運航となった。徳島、鹿児島線は30日が最終運航で、徳島-福岡便は10:00徳島発、鹿児島線は同日12:10福岡発の便であった。なお、YSの初就航から最終就航まで一度も空港を撤退しなかったのは全国で徳島空港だけである。
沖永良部空港では地元の踊り子によるエイサーで最終便を送り出し、鹿児島空港到着時には空港消防団によるウォーターアーチと、ファイナルフライトの到着後に引退記念セレモニーが行われ、多くのパイロット、整備士、客室乗務員をはじめとする日本エアコミューターの社員、元日航製の社員などが多数出席し引退を惜しんだ。セレモニーには日本中のテレビや新聞、雑誌の取材が殺到し、ファイナルフライトと引退セレモニーの記事が多くの新聞の一面を飾った。
これらの9月30日のファイナルフライトに使用された機体はJA8766とJA8768。JA8768は徳島から福岡への飛行後に鹿児島へ、JA8766が最後の沖永良部への最後フライトを行った(ちなみにこの機体は「レッド&グリーン塗装時代」には「とくのしま」(つまり隣の島)の愛称がついていた)。保存の声も根強かったものの、機体性能には問題なく、十分に現役で飛べるため、二機ともフィリピンへ売却された。
民間定期路線のYS-11最終便となった、日本エアコミューターの沖永良部空港発鹿児島空港行は2006年7月30日の発売開始から3分で完売した、しかしその後インターネットオークションに『2006年9月30日・日本エアコミューター・沖永良部発鹿児島行YS-11最終便搭乗券』1枚が出品されるという出来事があった。インターネットオークション運営会社と航空会社側が協力してインターネットオークションから「強制削除」され、出品された搭乗券は「無効扱い」とされた。なお出品時の価格は「10万円」だったと言われている。
引退後の2007年8月には新幹線0系電車などと共に機械遺産に制定されている。
[編集] 機体
機体の設計者たちは戦前に軍用機づくりに携わってはいたが、旅客機の設計をしたことの無い(乗ったことも無い)者がほとんどであった。このため設計には軍用機の影響が強く、信頼性と耐久性に優れる反面、騒音と振動が大きく居住性が悪い、(後述する理由で)操縦者に対する負担が大きいという、民間旅客機でありながら軍用輸送機に近い性格の機体となってしまった。安定性・快適性・経済性が重視される民間機としては不満があり、運用する航空会社側からは、非常に扱いにくいという厳しい評価を受けた。
それでも日本の航空業界側は「日本の空は日本の翼で」という意識のもと、改修に改修を重ね、機体を実用水準に高めた。航空業界によって使える機体となったとも言える。やがて東亜国内航空では海外に輸出された機体を購入しなおすなど、YS-11に対する信頼性は大いに上がった。
[編集] 頑丈さと過大重量
YS-11の軍用機的性格が良い方に働いた例として、機体の頑丈さが挙げられる。航空先進国であった欧米では、民間輸送機開発に際してすでに耐用年数などを踏まえた合理的な機体設計を行うようになっていたが、YS-11は戦後日本で初の本格的旅客機であるため、安全率を過大なまでに確保していた。主翼については約19万飛行時間、胴体は約22万5千時間に相当する疲労強度試験を行っている。東京・調布市にある航空宇宙技術研究所(NAL, 現JAXA)では26ヶ月にわたり大きな水槽の中に胴体を沈め、内圧をかけたり抜いたりを繰り返す胴体強度試験を行った(コメット連続墜落事故の検証で使われたものと、ほぼ同じやり方である)が、9万時間までどこも損傷することはなかった(最終的に試験装置の方が損傷し、終了した)。
だが頑丈さは重量増加という欠点にもなって跳ね返ってきた。近代旅客機の常道通りに総ジュラルミン製のモノコック構造であるが、強度重視で重量過大となり、出力の限られたエンジンに対しては重すぎる機体となった。元テストパイロットの沼口正彦は退役後のインタビューにおいて「YS-11はパワー不足が目立った」とも語っている。YSの出力不足は、沼口に限らず多くのパイロットから指摘されている弱点である。全日空の機長としてYS-11に乗務したことがある内田幹樹はその著書『機長からアナウンス』で「最初はあまりのパワーのなさに驚いた」「飛行機マニアに今でも人気が高いようだが、これはまったく理解できない」と酷評しており、後述するようにオートパイロットが無いことなども含めて、実際に操縦したパイロットからの評価は決して高いものではない。
操舵系統には戦後主流になりつつあった油圧を使わず、操縦桿と動翼をケーブルにより直接つなげており、自動操縦装置もなく(後に一部機体にはオートパイロット装備)、ほとんどを人力で動かしているために、沼口雅彦はYSを「世界最大の人力飛行機」と評している。信頼性確保と軽量化を目的としての人力操舵採用であったが、当然の結果として操縦に力を要し、パイロットからの評価を下げる一因となった。
保存機のうちで量産1号機にあたるJA8610は国立科学博物館によって羽田空港の全日空東京第一格納庫に保存されているが、YS-11の保存機のなかでも唯一の動態保存で、現在展示こそされていないものの、定期的にエンジンを動かし「YSの頑丈さを証明し、100年先も飛べるYSとして保存する」と言ったコメントを出している[3]。
機齢が40年を超えた機体も現れ始めたが、自衛隊や海外のエアライン等では現在も使用され続けている。航空大国アメリカでは「日本製の飛行機」「ロールス・ロイス製エンジンを搭載した飛行機」「ピードモンド航空が使っていた飛行機」という形で知られている。
[編集] 客室設備
トイレを装備しているが、当時の輸送機にはまだ多かった蓄積方式(いわゆる汲み取り構造で、消毒・消臭液を汚物タンク部に溜めてある)を採用しており、便器に水を流す設備はなかった。汚物の液体分だけを漉し取って消毒液を混ぜ、便器の水洗に利用する「循環式」は、YSでは採用に至っていない。トイレ内の照明はかなり暗めに設定されていた。
荷物搭載スペースが座席上部に存在するが、ここには帽子ぐらいの大きさのものしか収納できないことになっていたために、大きな荷物は搭乗前に手荷物として預けるか、座席の下に置く必要があった。機内の照明には丸型の蛍光灯が使用されており、一昔前のバスを思わせる内装となっていた。海外で活躍している機体もほぼ機内は無改造のまま使用されていることが多く、カーゴ設備や機内サービス器具、座席上部の読書灯などにその名残を見ることが出来る。
[編集] 派生型
YS-11にはいくつかの派生型式が存在する。機体の用途による違いで分かれているが、さらに納入先によって細かく区分されている。また、製造番号が付けられており、先行試作機2機は1001・1002、以下量産機は2003~2182である。
[編集] YS-11-100
- 生産機体番号 - 2003-49、58
2003(量産1号機)から2048が該当する初期の生産型。2010からは乗降口をスライドドアに変更、2040から翼の防氷装置をヒーターからラバーブーツ方式(ゴム膜に空気を送り込む)に変更した。納入先によって仕様が細かく違うことから形式名称が違う。日本国内航空(形式:106、108、109、124)が12機、全日本空輸(102、111)が9機、東亜航空(104、114)が7機、航空自衛隊輸送機Pが4機(103、105)、運輸省航空局が3機(104、110、118)海上自衛隊輸送機M(112、A-113)が2機、航空大学校(115)が2機、輸出はフィリピナス・オリエント航空(107、116、121)が4機、またリースでピードモント航空、大韓航空、ランサ航空、ハワイアン航空、クルゼイロ航空、アルゼンチン航空が採用した。このうちJA8612として使用された機体が定期便初就航の「聖火号」である。
海上自衛隊の輸送機Mのうち1機は2058だが、特別に100形 (A-113) として生産された。
[編集] YS-11A
1967年(昭和42年)製造の2050(通算50号機)以降の機体で、輸出を見込んで大幅に改良を施した。これは米国中西部の中古機や航空部品販売を行うディーラーであるシャーロット・エアクラフト社が米国での販売代理権の取得を目指して提案してきたことを受け入れた仕様であった。同社がコンサルタントを使い競合機(FH-227)との比較において、運行コスト、離発着性能が優れ、短距離ローカル線で需要があると判断したが、ペイロード(有償荷物重量)が少ないとの指摘を受けて改良されたものであった[4]。
エンジンはタービンの耐熱性向上とプロペラ減速歯車の強化によって出力を10パーセント増加させ、ペイロードを1トン増やした。合わせて各部の設計変更を行い、主脚ドアの内面を平滑にして脚上げ時の速度を289km/hから389km/hへ向上、同時に急降下の際に脚をエアブレーキとして使用できるようにした。座席の座面クッションを着水時の浮き具として使用できるものとし、座席間隔も86cmから79cmに改めて、64席に増やした。
2070からは内装をレザー張りからプラスチックに改め、カーテンもシャッター式ブラインドとして、ボーイング737などに対抗した。また、オプションとして補助動力装置 (APU) を搭載可能とし、空調・発電・油圧装置・エンジン始動を地上設備無しで作動可能とした。これは地上設備の貧弱な海外の地方空港乗り入れを目指したものである。2075からは乗降口を体の大きな欧米人に合わせて1.6mから1.75mに拡大、2078からはエンジンに、タービンブレードの材質変更で高温時の最大出力を4%増加したダート Mk542-10J を 、2092からは減速歯車を補強して耐久性を向上したダート Mk542-10K を搭載した。
[編集] YS-11A-200
- 生産機体番号 - 2050-57、59-69、75-85、90-103、108-121、123、126、127、130-138、141-149、152、154、155、157-159、163-168、175-178
YS-11Aのうち、標準形式の旅客型である。95機が生産された。最初の発注者であるピードモント航空はYS-11-100をリース購入していたが、頑丈な機体を気に入ったものの、機内設備などがアメリカの標準的な機内サービスの水準を満たすには程遠く、日航製は改良提案を受け入れて対応した。
ピードモント向けは205型で、電子装置を一新した。アメリカの標準に合わせるためにオートパイロットをスペリー製とし、フライトディレクターシステム・エアデータコンピュータ・電波高度計を追加し、アメリカ連邦航空局 (FAA) のカテゴリーII着陸の追加証明を獲得した。さらに計器類を刷新、インバータの増設、左プロペラにブレーキ設置、前脚ステアリングを50度から60度に変更、床下貨物室を後方へ60cm拡大した。機内設備はアメリカの航空会社の標準とし、前方乗降口を非常用に使用するため客室乗務員席を前方に増設、ギャレー(調理設備)装備もアメリカの水準に合わせたものを、トイレもジェット機で使う水洗、洗面台には給湯器を設置、座席を米国製に変更し、前方にコートルームを増設した。しかし、当時の米国では日本製品の信頼性が高くなく、乗客のイメージを配慮して、ビーモント航空では広告宣伝や時刻表には「ロールスロイス・プロップジェット」と表記して日本製やYSの表示は行わなかった。
ピードモントは205型を20機採用、続いてクルゼイロ航空が202型を8機、ヴァスプ航空が211・212を6機、オリンピック航空が220を6機、中華航空が219を2機、ポーラック・インドネシア航空が222を1機採用した。また、国内では全日空が208・213をリース含め計29機で最大のカスタマーとなり、東亜航空が217・221を11機、南西航空が209・214を5機、海上保安庁が207を2機、海上自衛隊が機上作業機T-Aに206を4機、航空自衛隊が飛行点検機 (FC) に218を1機採用した。また、リースとしていくつかの航空会社に引き渡された。
機体の多くは最初に発注された航空会社で使用された後も、第2・第3次カスタマーによって運用され、そのほとんどが500型に、後にカーゴ(貨物型)に改造された。
[編集] YS-11A-300
- 生産機体番号 - 2070-74、86-89、105-107、128、129、139、182
YS-11Aのうち、旅客・貨物混載の機体である。16機製造。前方が貨物室、後方が客室で、自動式タラップを内蔵した乗降口を後方へ移動し、前方左側には横2.48m・縦1.83の油圧式カーゴドアを増設し、大型貨物の搭載を可能とした。また前方の床は強化された。カーゴドアはプロペラ面を避けるため、自衛隊の貨物機400よりも横幅を縮小している。キャビンは隔壁の移動により、30席、38席、46席の混載型、50席から62席までの全旅客型にそれぞれ転換が可能である。
大韓航空が310型を4機、オーストラル航空が309を3機、トランスエアが306を2機、エアアフリクが302・314を1機ずつ、ガボン政府が318を1機、日本国内航空が307を1機、航空自衛隊が305を1機、海上自衛隊が1機(320→625として納入)採用、その他リース機として生産された。多くは600型に、その後にカーゴへ改造された。
後ろから乗るYSとして、YSのマイナーチェンジタイプとしては最も異彩を放った存在であった。
[編集] YS-11A-400
- 生産機体番号 - 2124、125、150、151、160-162、174
YS-11Aの貨物専用機である。航空自衛隊に7機(402型)と海上自衛隊に1機(404型)が納入されたが、民間からの受注は無かった。胴体後部左に横3.05m・縦1.83mのスライド式カーゴドアを設置、床は全面補強を行い、44席のパッセンジャーシート、3人がけのトループシート14基(42席)を設置可能、担架は24個を輸送できる。航空自衛隊では小型物資投下ドアも設置されている。
[編集] YS-11A-500
- 生産機体番号 - 2122、153、156、179
- 改造機体番号 - 2050-57、61、62、64、65、69、75、77-79、81、91、92、94-99、109、111-114、117-122、126、127、131、141、142、147、149、152-154、156、157、163、165、166、176、178
YS-11A-200のエンジンを542-10Kに換装し、ペイロードを500kg増加した機体。最大離陸重量も増加したため、運用能力が向上した。ピードモントが1機(205/500)、オリンピックが2機(220/500)、フィリピン航空が1機(523)採用した。また、200のうち54機が改造された。最後まで残った日本エアコミューターのYS4機はこのタイプである。日本ではJA8766(製造番号2142)・JA8768(製造番号2147)の機体が最後の最後まで使用され、ファイナルには8766が使用されていた。このシリーズには後にオートパイロットやTCADなどの追加装備を施したものも存在している。
[編集] YS-11A-600
- 生産機体番号 - 2104、140、169-173、180、181
- 改造機体番号 - 2070、71、72、73、89、106、128、172
YS-11A-300のエンジンを542-10Kに換装し、ペイロードを500kg増加した機体。最大離陸重量も増加したため、運用能力が向上した。海上自衛隊がT-Aとして2機(320-624)、ペリタ・エアサービスが2機(320/623)、リーブ・アリューシャン航空が2機(320/623)、ソシエテ・ジェネラル・アリマンタシオンが1機(321/627)、ガボン政府が1機(321/621)、ポーラック・インドネシアが1機を採用した。また、300のうち8機が改造された。
このタイプも-300同様搭乗の際は後ろ側から乗り込む形となり、全日空のYSラストフライトはこのタイプが使用されていた。
[編集] YS-11A-500R
- 改造機体番号 - 2101、102、103、108、115、116、133、146
YS-11A-200のエンジンにMk543を搭載、高気温・高地運用時の片発上昇性能が向上したことで、離陸重量制限が緩和された。開発段階ではYS-11Rであり、1972年(昭和47年)7月に型式証明を取得した。全日空の213のうち、8機が改造の対象となった。
[編集] YS-11A-CARGO
- 改造機体番号 - 2050-53、56、62、70-73、75、77、86-88、104-106、113、114、117、120、129、139、140、154、169、170、171、173
YS-11Aの第3次カスタマーが運航している、YS-11の最終形態と言える機体である。その名の通り全貨物機であり、200/300/500/600のうち、最後まで残った機体の中から30機が改造された。
[編集] 計画機
赤字が問題になっていた日航製だったが、1970年(昭和45年)に起死回生のための二つの派生型を用意していた。しかし翌年末の政府決定によりYS-11が生産中止となったため、計画も放棄された。
- YS-11J
- YS-11のリージョナルジェット タイプ
- 全長29.5m、全幅32m、全高8.5m。
- 主翼の上にロールス・ロイス/スネクマ(SNECMA) M45Hターボファンエンジンを搭載、後退尾翼に改造し、最高高度7,620m(2万5千フィート)航続距離2,100km、巡航速度650km/hを目指した。設計図や当時の詳細パンフレットなども残っており、ジェット機は通常翼の下部分にエンジンがあるが、この機体のイラストではエンジンを翼上に搭載したタイプである。しかし、同時期にオランダ・西ドイツ・ベルギーが共同開発したVFW614も翼上にエンジンを搭載するタイプであったが、その奇抜なデザインは話題にはなったものの、市場には受け入れられず、わずか19機で生産中止に追い込まれた事を鑑みると、YS-11Jの販売も苦労した事が想像できる。
- YS-11S
- YS-11の短距離離着陸 (STOL) タイプ
- 全長28.8m、全幅29m、全高7.3m。
- エンジンを4基搭載、尾翼を大幅に改造して、航続距離900km、600m級の滑走路で離着陸が可能とされた。1970年(昭和45年)にアメリカン航空が、短距離の都市近郊路線へのSTOL機導入のため、1974年(昭和49年)に国際競争入札すると発表したことから計画した。入札内容は47席以上のコミューター機、開発費のかからないもの、20機から300機を購入するとしていた。候補に選ばれたのは日航製のほか、ホーカー・シドレー、コンベア、デハビランド・カナダ、マクドネル・ダグラス。
[編集] 運用
合計182機(国内民間機75機、官庁34機、輸出13カ国76機など)が製造され、日本をはじめとする各国の航空会社や政府で使用された。一方で日本国内だけで4件の事故(うち墜落3件)を起こした。
日本国内ではローンチ・カスタマーとなった全日空で1970年代30機の保有がピークとなり80年頃より順次退役し、1991年8月31日の新潟~仙台間ANA720便が最後の運行となった。一方、1971年に国内航空(JDA)と東亜航空(TAW)が合併した東亜国内航空(TDA)では1980年代には42機を保有する最大のオペレーターとなっていた。既に機体は生産中止となっていたことから、海外の中古機を買い戻して調達した。これはTDAが抱える路線が騒音問題、空港施設の問題からYS-11に依存しなければならない路線が多かったためである。 しかし、経年と共に整備費用が上昇したことで、YS-11の経済効率の悪さが顕著になってきた。搭乗率が高いとしても運行経費の上昇で赤字となる路線が多かった。整備費を1975年が100の指数とすると、1977年には193.7、1978年に228、1979年には249.1となり、加えて、燃料費の高騰、公租公課の上昇と、YS-11の経済性は下がる一方となり、YS-11の路線で黒字を計上する路線は僅かなもので、ほとんどが赤字路線となり、1994年3月8日の南紀白浜~羽田便を最後に同社(JAS)から引退した[5]。
日本国内の民間航空機としては引退したが、その頑丈なつくりのため、各国に輸出された機体にはまだ現役にあり続けるものも少なくなく、タイやフィリピンなどではまとまった数の機体が各航空会社で活躍している。またギリシャでは、海運王アリストテレス・オナシス率いるオリンピック航空への輸出機が転籍を経て、現在もギリシャ空軍機として使用されている。政府専用機として国家元首の移動に使用された機体もある。また、大韓航空にリースされた1機はハイジャックされ、北朝鮮に抑留状態となった(乗客乗員51名の内39名が韓国へ移送)。抑留された機体のその後は不明である(大韓航空機YS-11ハイジャック事件参照)。
日本国内の官庁向けでは、10機が海上自衛隊、13機が航空自衛隊、5機が海上保安庁、6機が国土交通省(旧運輸省)航空局に納入され、通常の輸送任務のほか練習機や各種任務機として配備運用されている。航空自衛隊ではC-1輸送機導入までのつなぎとして導入したのが始まりだが、後にエンジンをより強力なゼネラルエレクトリック(GE)製のアリソンT64に換装して性能を向上したYS-11EA/EBが登場した(これらは俗に「スーパーYS-11」と呼ばれる)。1990年海上保安庁のYS-11「おじろ」は樺太(サハリン)から全身火傷のコンスタンティン・スコロプイシュヌイを搬送する作業に使用された。
日本国内の民間航空会社においては、日本の航空法が設置を義務付ける空中衝突防止装置(TCAS)が搭載されていないため、機体寿命より早く引退した。TCASを搭載するためには一機あたり約1億円が必要で、機体年齢を考えるとYS-11を改修するよりは新型機を購入したほうが結果的には安いという判断からだと思われる。特例期間として2003年(平成15年)9月30日まではTCASの装備なしでも飛行可能であったが、当時運行していた2社の内、エアーニッポン機材は同年8月31日をもって全機退役させることになり(最終フライトはJA8772で女満別から新千歳)、日本エアコミューターはTCASの簡易版である空中衝突警報装置(TCAD)の装備により、法律上は2006年(平成18年)12月31日まで運行可能の特例が認められた。上記によって2004年(平成16年)には、日本国内において就航させていた航空会社は日本エアコミューターのみとなり、2006年(平成18年)9月30日に法律上の期間を満了することなく全路線から撤退した。しかし海外では中古機を含めて当分は旅客機として活躍すると思われる。また、TCAS設置が義務付けられていない自衛隊においては、全機が現役で使用されているほか、日本航空学園では地上訓練用の教材として現役を続けている機体が存在する。
YS-11が運用終了した後にYS-11で運用していた路線ではDHC-8 Q400が多く採用されている。しかし、YS-11が退役した直後から日本の航空会社ではDHC-8の機体トラブル(高知空港での事故など)が相次ぎ、皮肉にも目立った構造上の欠陥が無かったYS-11の高い安全性と耐久性、製造技術の高さが改めて証明される形となった(YS-11が起こした事故は大半が人為的ミスによるものである)。
[編集] 導入航空会社(リース含む)
日本の主要航空会社の他、アジア、南北アメリカ、ヨーロッパ、アフリカの航空会社に新造機として導入された他、ギリシア政府やフィリピン政府専用機および空軍機としても運行されていた。その後転売を重ねられた機体も多く、2008年5月現在、各国の航空会社で運航されている機体は20―30機程度とみられ、その他に同数程度の機体が動態保存されているとみられる。
[編集] 日本
- 日本国内航空・東亜航空→東亜国内航空→日本エアシステム(現日本航空ジャパン):後に日本エアコミューターへ転籍した機体がある。
- 日本航空(ウェットリース)
- 全日空:後にエアーニッポンへ転籍した機体がある。
- 南西航空(現日本トランスオーシャン航空)
- 中日本航空(試作2号機を運用:定期旅客輸送業務については全日本空輸や中日本エアラインサービス(現・エアーセントラル)に移管)
[編集] アジア
- 大韓航空(大韓民国、新造機導入)
- 中華航空(中華民国、新造機導入)
- オリエント・フィリピナス航空(フィリピン、新造機導入)
- エアー・フィリピン(フィリピン、新造機導入)
- フィリピン航空(フィリピン)
- アボイティス航空(フィリピン)
- アジアン・スピリット航空(:en:)(フィリピン)
- サウス・フェニックス航空(フィリピン)
- ピラミッド航空(フィリピン)
- プーケット航空(タイ王国)
- エア・フェニックス(タイ王国)
- ブーラク航空(インドネシア、新造機導入)
- マンダラ航空(インドネシア、新造機導入)
- メルパチ・ヌサンタラ航空(インドネシア、新造機導入)
- ぺリタ・エアサービス(インドネシア、新造機導入)
[編集] ヨーロッパ
[編集] 南アメリカ
- VASP航空(ブラジル、新造機導入)
- クルゼイロ航空(ブラジル、新造機導入)
- ヴァリグ・ブラジル航空(ブラジル)
- アルゼンチン航空(アルゼンチン、新造機導入)
- アラ航空(アルゼンチン、新造機導入)
- オーストラル航空(アルゼンチン)
- LANSA航空(ペルー、新造機導入)
- アエロダン(メキシコ)
- アエロシエラ・デ・デュランゴ(メキシコ)
[編集] 北アメリカ
- ピードモント航空(アメリカ、新造機導入)
- ハワイアン航空(アメリカ、新造機導入)
- リーブ・アリューシャン航空(アメリカ、新造機導入)
- ミッドパシフィック航空(アメリカ)
- エアボーン・エクスプレス航空(アメリカ)
- パシフィック・サウスウェスト航空(アメリカ)
- プロビンスタウン-ボストン航空(アメリカ、新造機導入)
- コンチネンタル・エクスプレス(アメリカ、運航はプロビンスタウン-ボストン航空)
- シモンズ航空(アメリカ)
- アメリカン・イーグル航空(アメリカ、運航はシモンズ航空)
- トランス・セントラル航空(アメリカ)
- フォートワース・エア(アメリカ)
- カナダトランス航空(カナダ、新造機)
[編集] カリブ海沿岸
- エア・カリビアン(トリニダード・トバゴ)
- アルバ航空(オランダ領アルバ)
[編集] アフリカ
[編集] 採用官公庁
[編集] 自衛隊
自衛隊では1965年(昭和40年)から1973年(昭和46年)までにYS-11を23機導入した。内訳は航空自衛隊13機、海上自衛隊10機であった。この採用には、世界への信頼誇示のため、防衛庁に進んで採用してほしいとの強い要望が通産省から寄せられたという裏話もある(軍用に使用できる航空機を、製造国の軍隊が採用しなければ、それは信頼に値しないと言うのが、世界の航空業界の常識である)。空自の一部の機体はジェネラル・エレクトリック社製 T64-IHI-10J を搭載し、プロペラを3枚に変更した「スーパーYS-11」となっている。航空法改正により、日本の航空機は空中衝突防止装置の設置が義務付けられたが、自衛隊機は対象外であり、かつ民間機より飛行時間が短い為、民間YS-11が引退した後も運用されている。
