ロサンゼルス・ドジャース - Wikipedia

ロサンゼルス・ドジャース

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ロサンゼルス・ドジャース
Los Angeles Dodgers
創設: 1884年
所属リーグ

ナショナルリーグ西地区

歴代チーム名
  • ロサンゼルス・ドジャース (1958年 - )
  • ブルックリン・ドジャース (1932年 - 1957年)
  • ブルックリン・ロビンス (1914年 - 1931年)
  • ブルックリン・ドジャース (1913年)
  • ブルックリン・トロリードジャース (1911年 - 1912年)
  • ブルックリン・スーパーバス (1899年 - 1910年)
  • ブルックリン・グルームス (1891年 - 1895年)
  • ブルックリン・ブライドグルームス (1888年 - 1890年)
  • ブルックリン・グレイス (1885年 - 1887年)
  • ブルックリン・アトランティックス (1884年)
歴代本拠地

収容人員: 56,000人
永久欠番
1, 2, 4, 19, 20, 24, 32, 39, 42, 53
獲得タイトル(獲得年)
ワールドシリーズ優勝 (6回) 1955 • 1959 • 1963 • 1965
1981 • 1988
リーグ優勝 (21回) 1890 • 1899 • 1900 • 1916
1920 • 1941 • 1947 • 1949
1952 • 1953 • 1955 • 1956
1959 • 1963 • 1965 • 1966
1974 • 1977 • 1978 • 1981
1988
地区優勝 (10回) 1974 • 1977 • 1978 • 1981
1983 • 1985 • 1988 • 1995
2004 • 2008
ワイルドカード (2回) 1996 • 2006
球団組織
オーナー: スティーブ・フランク・マッコート
GM: ネッド・コレッティ
監督: ジョー・トーリ

ロサンゼルス・ドジャースLos Angeles Dodgers、略称:LAD)は、アメリカMLBナショナルリーグ西地区所属のプロ野球チーム。本拠地はカリフォルニア州ロサンゼルスにあるドジャー・スタジアム

目次

[編集] 概要

創設は1884年。1947年にアフリカ系アメリカ人として初のメジャーリーガーであるジャッキー・ロビンソンがデビュー、1995年には史上2番目の日本人メジャーリーガーである野茂英雄がデビューした球団として知られる。創設以来、ニューヨークブルックリン区)を本拠地としていたが、1958年に現在のロサンゼルスに本拠地を移した。同年にはニューヨーク・ジャイアンツも同じく西海岸のサンフランシスコに本拠地を移している。

他人種、他地域からの選手の発掘、西海岸への本拠地の移転など、他の球団に先駆けた改革を行い、大きな成功を収めた。これらは長年オーナーを務めたウォルター・オマリーピーター・オマリーらオマリー一族の影響が大きく、ドジャースは「働きやすい全米企業ベスト100」に何度も名を連ねるなど、球団経営の質を高めた(その後FOXグループに売却)。

リーグ優勝21回はニューヨーク・ヤンキースに次ぐメジャー2位、ワールドシリーズ優勝は6回を数える。ワールドシリーズ初優勝を遂げる1955年までに10回のリーグ優勝をしているが、ワールドシリーズではことごとく敗れ続けた。特に当時本拠地を同じとしていたヤンキースとの対戦が多く、1955年に6回目の挑戦で初めてヤンキースを破っている。

その後ワールドシリーズ優勝は、ロビンソンが活躍した1950年代、ロサンゼルスに本拠地を移した後にサンディ・コーファックスドン・サットンら名投手が在籍した1960年代、ウォルター・オルストンの後を継ぎ、20年に渡って監督を務めたトミー・ラソーダの下、1980年代に各2回ずつ成し遂げている。

現在本拠地とするドジャー・スタジアム周辺がユダヤ系アメリカ人の多い土地柄であるため、ユダヤ系アメリカ人選手を好んで獲得する傾向がある。スモールボール(スモールベースボール)のパイオニア的存在で、日本のプロ野球(特に読売ジャイアンツ)にも大きな影響を与えた。

日本人選手では野茂をはじめ、石井一久木田優夫中村紀洋らが在籍した。2008年シーズンも斎藤隆黒田博樹がプレーする。

[編集] 球団の歴史

シーズン成績の詳細については年度別成績一覧を参照

[編集] 球団創設

ブルックリンはプロ球団が登場する以前の1850年代から、いくつかの有名な野球クラブがしのぎを削っていた。1860年代には周囲が塀で囲まれ、入場料の取れる野球場が開かれるなど、野球がプロ化する環境が早くから整っていた。当時強さを誇ったクラブのいくつかは1870年代にプロ球団化したが、優秀な選手が激しい引き抜きにあって弱体化し、ナショナルリーグの発足前に破綻してしまった。

現在のドジャースに繋がる球団は1883年に創設され、翌年の1884年に、ニューヨーク・ブルックリン地区(当時はブルックリン市)のワシントン・パークを本拠地としてアメリカンアソシエーションに加盟した。発足当初から興行的に成功し、チームは個々に選手を集めるだけでなく、破綻した他球団も買収しながらチームを強化していった。1888年には破綻したニューヨーク・メトロポリタンズを吸収し、セントルイス・ブラウンズ(現カージナルス)の主力投手だったボブ・カルザースを獲得、チームの生え抜きで2度のノーヒッターを記録したアドニス・テリーとの強力な二枚看板で、1889年にリーグ優勝を成し遂げた。翌1890年にはプレイヤーズ・リーグ創設の混乱の中ナショナルリーグに鞍替えし、ナショナルリーグ優勝を果たしただけでなく、破綻したプレイヤーズ・リーグのブルックリン・ワンダーズを吸収、リーグの創始者だったジョン・ウォードを監督に招きいれている。

チームが次にリーグ優勝を果たすのは1899年1900年のことだが、この時は当時ナショナルリーグの常勝チームだったボルチモア・オリオールズ(現存球団とは別)のオーナーだったハリー・フォン・デル・ホーストが、ブルックリンの経営に参画してオリオールズと球団経営を掛け持ちし、監督のネッド・ハンロンをはじめ、ジョー・ケリーウィリー・キーラージム・ヒューズといったオリオールズの主力選手たちを、ごっそりブルックリンに移したことで成し遂げられたものである。

[編集] アンクル・ロビーの時代~低迷期

しかし20世紀に入ってからは成績が低迷し、チームは1904年から11年連続で負け越しを続けた。1913年に本拠地をワシントン・パークからエベッツ・フィールドへ移し、1914年にチーム名も「ロビンズ」に変え、「アンクル・ロビー」ことウィルバート・ロビンソンが監督に就任したことで、ようやくチームは再建された。ロビンソンは前述のボルチモア・オリオールズの出身者で、世紀の変わり目にチームをリーグ優勝に導いたネッド・ハンロンの愛弟子とでも呼ぶべき人物だった。チームはロビンソンの元で1916年1920年にリーグ優勝を果たす。当時活躍した選手としては、殿堂入りした外野手のザック・ウィート、1913年と1914年に首位打者となったジェイク・ドーバート、投手では1916年に25勝をあげたジェフ・フェファー、殿堂入り投手となったルーブ・マーカードバーリー・グライムスらの名前が挙げられる。1920年には初めて1試合当たりの観客動員が1万人を超えた。しかし良い時期は長くなく、1920年代は再び成績が低迷する。経営陣のチャーリー・エベッツとエド・マッキーバーが1925年に相次いで亡くなり、ロビンソンが経営に参画して試合に集中できなくなったことも一因だった。この頃のチームは"Daffiness Boys"(愚か者たち)と愛情も込めて呼ばれていて、外野手ベーブ・ハーマンは、この頃の低迷するチームの代表的な選手と言えるだろう。またロビンソンの育て上げた選手の一人ダジー・ヴァンスは、1920年代に7年連続のリーグ奪三振王となり、後年野球殿堂入りを果たしている。

次のリーグ優勝は第二次世界大戦下の1941年、レオ・ドローチャーの監督就任を待たねばならなかった。1938年から球団経営に加わったラリー・マクフェイルのチーム作りが3年越しで成果を挙げたものだった。他方でマクフェイルはブルックリンの試合のメディアでの中継放送を積極的にすすめ、1939年8月26日のドジャース対レッズ戦が、メジャーリーグ史上最初にテレビ中継された試合となった。またドジャースは、1941年に他球団に先駆けてバッティング用ヘルメットの導入を進めている。

[編集] 「カラーライン」の打破

マクフェイルは1942年に徴兵され、球団経営の実権はマクフェイルの友人だったブランチ・リッキーに移っていたが、リッキーは戦争終結後、それまで誰も手を出そうとしなかったアフリカ系アメリカ人選手の獲得によるチームの強化へ向けて動き始めていた。後述のロビンソン獲得の前から、自身の傘下にマイナーリーグを組織し、有望なアフリカ系アメリカ人選手を入団させその力量を見極めていた。

そして1947年に、スカウトのジョージ・シスラーから推薦を受けたジャッキー・ロビンソンとメジャー契約を結び、その後に続く黒人選手の道を開いていった。 ロビンソンはこの年に制定された新人王を受賞し、その成功に習う球団が次々と現れ、19世紀末から続いたメジャーリーグの「カラーライン」は崩れ去った。リッキーの思惑は当たり、ロビンソンの登場以降チームは躍進、1947年から1956年の10年間でリーグ優勝6度、2位が3度という常勝チームに生まれ変わる。投手ではドン・ニューカムプリーチャー・ロー、野手はロビンソンをはじめロイ・キャンパネラピー・ウィー・リースデューク・スナイダーらが中心となった。しかしワールドシリーズにおいては、アメリカンリーグのニューヨーク・ヤンキースに、1941年以降5度もの敗退を繰り返し、ファンの間では、"Wait 'til next year"(次の年こそ)という言葉が暗黙のスローガンになっていたほどだった。チームは1955年のワールドシリーズで、ヤンキースへの6度目挑戦で悲願のワールドチャンピオンとなる。優勝決定後のニューヨーク・デイリー・ニューズ誌には、前述のスローガンにあてて、"This is Next Year!"(「次の年」がついにきた)という見だしが立った。

[編集] 西海岸へ

1950年代にブルックリン地区では黒人とプエルトリコ系の住民が増え、白人の富裕層の流出が進み、治安が悪化していった。球場は街中にあるため改装や駐車場の増設が思うようにできず、観客動員も1947年の1,807,526人をピークにその後は100万人前後で推移した。球団はブルックリン地区内に新球場を建設することを希望していたが、ニューヨーク市側はフラッシング・メドウズへの移転を勧め(その土地には最終的にはメッツの本拠地、シェイ・スタジアムが建設された)、球団がブルックリンで新たな土地を取得することを認めなかった。このため球団は1957年5月、ナリーグのオーナー会議で移転の了承を得て、1958年に西海岸のロサンゼルスへ移転した。因みに同じニューヨーク(マンハッタン)に本拠を構えていたジャイアンツが、ドジャーズと同時にサンフランシスコへ移転している。

移転当初はドジャー・スタジアムが完成するまでの間、ロサンゼルス・メモリアル・コロシアムを本拠地とした。スタジアムはその卵形の形状ゆえ野球場に適さず、本塁から左翼席までの距離も250フィート(約76.2m)しか取れなかった。このためレフト方向に高さ40フィート(約12.2m)にもなるスクリーンを立てて本塁打の量産を防ごうとしていた。このような悪い環境にも関わらず、ドジャースは多くの観客を動員した。こんな極端な球場の形に上手く適応した選手の一人が、ドジャースの外野手だったウォーリー・ムーンであろう。彼は1959年シーズンにリーグ最多の三塁打を記録したが、その多くはこのスタジアムでレフト方向にふらふらとあがった打球で、それが左翼の高いスクリーンに当たって三塁打になったものだった。ファンの間ではこのムーンの三塁打が、彼の名前に引っ掛けて「ムーン・ショット」(月ロケット発射の意)と呼ばれていた。ドジャースは移転2年目の1959年にリーグを制覇し、1959年のワールドシリーズを"ゴーゴー・ソックス"と呼ばれたシカゴ・ホワイトソックスとこのスタジアムで戦い優勝した。シリーズの第5戦ではメジャー最多記録となる92706人の観客を動員している。

ドジャースタジアムは1962年に完成し、1978年にはメジャー史上初めて年間観客動員300万人を達成している。

[編集] オルストンのスモールボール

ドジャースタジアム完成の頃、ドジャースはウォルター・オルストン監督の元で、投手力・守備力・機動力を重視したチームを作り上げていた。攻撃力は今ひとつだったが、チームの中心にはサンディ・コーファックスドン・ドライスデールの絶対的な投手の二枚看板がいた。コーファックスは1960年代にサイ・ヤング賞を3度獲得し、ドライスデールも1962年のサイ・ヤング賞をはじめオールスターゲームに8度出場など輝かしい実績を残している。当時のドジャースは、「足の速いモーリー・ウィリスが出塁して盗塁、内野ゴロと犠牲フライで彼を迎え入れた後は、コーファックスかドライスデールが相手を完封して1-0で勝利」という勝ちパターンがまことしやかに語られていたほどだった。

特にコーファックスは1963年のワールドシリーズで、ヤンキースを相手に1試合15奪三振を記録するなど、1960年代のドジャースのワールドシリーズ制覇に幾度も貢献したが、左肘の故障を理由に1966年に30歳の若さでユニフォームを脱いだ。オルストンは1976年まで通算23年間ドジャースを率い、通算7度のリーグ制覇をドジャースにもたらした。

[編集] ラソーダ監督以降

1977年トミー・ラソーダが監督に就任し、以後1996年途中まで指揮をとった。1981年にメキシコ人のフェルナンド・バレンズエラがデビュー。 "フェルナンドマニア"を生み出し、 新人投手としては初のサイ・ヤング賞を獲得、同年のワールドシリーズ制覇に大きく貢献した。

1988年には"ブルドッグ"ことオーレル・ハーシハイザーが59イニング連続無失点の記録を達成する。リーグ優勝しワールドシリーズに進んだドジャースには、もう一つ大きなドラマが待っていた。この年FAで獲得した主砲カーク・ギブソンはリーグチャンピオンシップで足を怪我し、ワールドシリーズへの出場は絶望と思われていた。しかし1988年のワールドシリーズ第1戦、1点リードされた9回裏に、出場できないはずのギブソンが足を引きずりながら代打で登場する。ギブソンはアスレチックスの守護神デニス・エカーズリーから7球目をライトスタンドに放り込み、この劇的なサヨナラ勝ちで勢いづいたドジャースが、このシリーズを4勝1敗で制した。

1994年には朴賛浩が韓国人として初のメジャーデビューを果たし、1995年に野茂英雄投手と契約。 NOMO旋風を巻き起こし、日本人のメジャー進出の先鞭をつけた。1992年から1996年までエリック・キャロスマイク・ピアッツァラウル・モンデシー野茂英雄トッド・ホランズワースと5年連続で新人王を輩出した。

ラソーダは1996年シーズン途中で辞任し、翌1997年にはオマリー会長が球団をフォックスグループへ売却した。1998年にはピアザや野茂を放出し、1999年開幕前にはケビン・ブラウンと1億ドルを越える大型契約を結んだが、チームは1988年以降ワールドシリーズに進出できずにいる。

[編集] チーム名の由来

ニューヨークのブルックリン地区に本拠地を置いていた時代に、「路面電車をひらりと避ける人たち」を表す「トローリー・ドジャース」から名付けられたといわれている。あるいは、ブルックリン地区では路面電車の外にぶら下がってタダ乗りをする人が後を絶たなかったため、「トローリー・ドジャース」とは「路面電車をタダ乗りするずる賢いやつら」という意味であるとする異説もある。

[編集] 主な選手

[編集] 現役選手

投手

捕手

内野手

外野手

* アクティブロースター外
** 40人ロースター外
2009年1月7日更新   
[公式サイト(英語)より:40人ロースター  選手の移籍・故障情報  予想オーダー]

[編集] 殿堂入り選手

[編集] 永久欠番

ドジャースには永久欠番の制定に関する基準が存在する。

  • 米国野球殿堂入り

例外として、コーチ在籍中に逝去したジム・ギリアムの19番が存在する。

[編集] 傘下マイナーチーム

クラス チーム 参加リーグ
AAA ラスベガス・フィフティワンズLas Vegas 51s Pacific Coast League
AA ジャクソンビル・サンズJacksonville Suns Southern League
A+ インランドエンパイヤ・シックスティシックサーズInland Empire 66ers California League
A グレートレイクス・ルーンズGreat Lakes Loons Midwest League
Rookie オグデン・ラプターズOgden Raptors Pioneer League
ガルフコースト・ドジャースGulf Coast Dodgers Gulf Coast League

[編集] 表記と発音

ニックネームの現地発声は「ダッヂャズ」に近いが、日本では慣習的に「ドジャース」と表記される。

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ