ユーゴスラビア
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ユーゴスラビアは、1929年から2003年の間に存在した東ヨーロッパの国家。正式な国名は何度か変更しているので国名の項目を参照。
首都はベオグラード。1918年にセルビア王国を主体としたセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(セルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国)として成立。1929年ユーゴスラビア王国に改名。1945年からは共和制。1991年からのユーゴスラビア紛争により解体。その後も残留した地域において国家そのものは継続されていたが、2003年に国名をセルビア・モンテネグロに改称し事実上消滅。2006年にモンテネグロが独立した時点で完全消滅となった。
旧ユーゴスラビア連邦の構成共和国だったスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニア、セルビアの自治州だったコソボが現在単一国家として存続している。
バルカン半島に位置し、国境をイタリア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシア、アルバニアなどと接していた。
目次 |
[編集] 国名
ユーゴスラビアはセルビア・クロアチア語のラテン文字表記でJugoslavija、キリル文字表記でJугославиjа。それぞれの英語表記による正式な国名については後述。
日本語での表記はユーゴスラビアもしくはユーゴスラヴィア、略称はユーゴ。
ユーゴスラビアは「南スラブ人の土地(Jugoslavija )」を意味し、国家の名称は1929年、ユーゴスラビア王国として使用されたことに始まる。
[編集] 国名の変遷
- 1929年 - ユーゴスラビア王国(Kingdom of Yugoslavia)
- 1943年 - ユーゴスラビア民主連邦(Democratic Federal Yugoslavia)
- 1946年 - ユーゴスラビア連邦人民共和国(Federal People's Republic of Yugoslavia)
- 1963年 - ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(Socialist Federal Republic of Yugoslavia)
- 1992年 - ユーゴスラビア連邦共和国(Federal Republic of Yugoslavia セルビア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナ。ただしボスニア・ヘルツェゴビナはすぐに独立)
- 2003年2月5日 - 「セルビア・モンテネグロ」となり、ユーゴスラビアの国名が消滅。
[編集] 歴史

[編集] 第一のユーゴ
第一次世界大戦中、汎スラヴ主義を掲げてオーストリアと戦ったセルビアはコルフ宣言を発表し、戦後のバルカン地域の枠組みとして既に独立していたセルビア、モンテネグロに併せてオーストリア・ハンガリー帝国内のクロアチア、スロベニアを合わせた南スラブ人王国の設立を目指すことを表明した。
1918年に第一次世界大戦が終了しオーストリア・ハンガリー帝国が解体されるとクロアチア、スロベニアもオーストリア・ハンガリー帝国の枠組みから脱却して南スラブ人王国の構想に加わりセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(セルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国)が成立した。
新しい王国の下では、地方行政の区分けが自然の川や分水嶺によって設定され、セルビア人やクロアチア人といった民族の違いによる地域の区分は全く無視された。それに加え、中央集権国家を目指した王国はベオグラードのセルビア人が中心になって運営されたたため、クロアチア人の不満は大きいものとなった。
1929年には国王アレクサンダルが憲法を停止して独裁制を布告し、ユーゴスラビア王国と国号を変更した。1931年に新憲法を布告し、セルビア人至上主義と国王独裁を強めた。このため、クロアチア人の不満はいっそう高まる事になった。1934年、国王アレクサンダルがフランス外相とともにマルセイユで暗殺され、ペータル2世が即位した。当時、この暗殺はクロアチアの民族主義者の手引きによるものと考えられたが、真相はわかっていない。
アレクサンダル暗殺後はクロアチアの要求をある程度受け入れる方針に転換し、1939年にはクロアチア人の自治権を大幅に認めクロアチア自治州を設立させることで妥協が成立した。しかしこの妥協はユーゴスラビア内の矛盾を拡大しただけで終わった。一方、クロアチア人による民族主義グループのウスタシャは、クロアチア自治州の成立だけでは満足せず、更にクロアチアの独立を目指した。
[編集] 第二次世界大戦
当初ユーゴスラビア王国政府は親独路線を採り、1941年3月25日には日独伊三国軍事同盟に加盟したが、これに反対する国軍が3月26日から27日夜にかけてクーデターを起こし、親独政権は崩壊した。新政権は中立政策を表明し、三国同盟への加盟を取り消す一方で、ナチス・ドイツへの抵抗を明確にし、4月6日未明にソ連との不可侵条約に調印したが、条約調印から6時間後にはドイツ軍がイタリア、ハンガリー、ブルガリア等の同盟軍と共にユーゴスラビア侵攻を開始し、4月17日にユーゴスラビアは降伏した。ナチス・ドイツはユーゴスラビアを分割占領し、クロアチア地域ではウスタシャに拠る政権を新しい地域の為政者として同盟を結んだ。またセルビア地域には、軍政を敷くと共に、ミラン・ネディッチ将軍率いる親独傀儡政権「セルビア救国政府」を樹立させた。
ウスタシャはドイツの支援を受けてユーゴスラビアを解体し、クロアチア独立国を成立させた。クロアチア人はセルビア人への復讐を始め、強制収容所にセルビア人を連行して虐殺したと言われる。のちに大量の遺骨が地中から発見されており、真実と推測されている。
ドイツに侵攻されたユーゴスラビア王国政府はロンドンに亡命政権を樹立し、ユーゴスラビア王国軍で主流だったセルビア人将校を中心としたチェトニックを組織してドイツ軍に対抗した。しかし旧来のユーゴスラビア王国内の矛盾を内包したチェトニックは士気が弱く、クロアチア人を虐殺するなどしたため、セルビア人以外の広範な支持を広げることが無かった。代わってドイツに対しての抵抗運動をリードしたのはヨシップ・チトー率いるパルチザンだった。パルチザンはドイツ軍に対して粘り強く抵抗し、ソ連軍の力を東欧の国で唯一借りず、ユーゴスラビアの自力での解放を成し遂げた。
[編集] 第二のユーゴ
大戦中の1943年に成立したユーゴスラビア民主連邦は社会主義を標榜し、新たな国家体制の構築に奔走。戦後、自力でユーゴスラビアの解放に成功したチトーは王の帰国を拒否し、ロンドンの亡命政権を否認、ユーゴスラビア連邦人民共和国を宣言した。戦後の政権党となったユーゴスラビア共産党(1952年にユーゴスラビア共産主義者同盟と改称)は、1948年にコミンフォルムを追放されて以降、ソ連のコントロールから外れ、アメリカが戦後のヨーロッパ再建とソ連への対抗策として打ち出したマーシャル・プランを受け入れる姿勢を取り、東ヨーロッパ諸国を衛星国として取り込もうとしていたソ連と対立して、断交と国交回復を繰り返した。ソ連と対立したため、東ヨーロッパの軍事同盟であるワルシャワ条約に加盟せず、冷戦下における安全保障策として非同盟運動(Non-Alignment Movement, NAM)を始めるなど独自の路線を打ち出した。その一方、ソ連から侵攻されることを念頭に置いて、ユーゴスラビア連邦軍とは別個に地域防衛軍を配置し、武器も配備した。地域防衛軍や武器は、後のユーゴスラビア紛争で利用され、武力衝突が拡大する原因となった。
社会主義建設において、ソ連との違いを打ち出す必要に迫られた結果生み出されたのが、ユーゴスラビア独自の社会主義政策とも言うべき自主管理社会主義である。これは生産手段をソ連流の国有にするのではなく、社会有にし、経済面の分権化を促し、各企業の労働者によって経営面での決定が行われるシステムだった。このため、ユーゴスラビアでは各企業の労働組合によって社長の求人が行われる、他のシステムとは全く逆の現象が起こった。この自主管理社会主義は、必然的に市場を必要とした。そのため、地域間の経済格差を拡大させ、これが後にユーゴスラビア紛争の原因の一つとなった。加えて、市場経済の完全な導入には踏み切れなかったため、不完全な形での市場の発達が経済成長に悪影響を及ぼす矛盾も内包していた。
第二のユーゴはスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6つの共和国と、セルビア共和国内のヴォイヴォディナとコソヴォの2つの自治州によって構成され、各地域には一定の自治権が認められた。これらの地域からなるユーゴスラビアは多民族国家であり、その統治の難しさは「7つの隣国、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字により構成される1つの国」と表現された。 7つの隣国とは、イタリア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシア、アルバニアのこと。6つの共和国はスロベニア、クロアチア、セルビア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア。5つの民族はスロベニア人、クロアチア人、セルビア人、マケドニア人、モンテネグロ人。4つの言語はスロベニア語、セルビア語、クロアチア語、マケドニア語。3つの宗教はカトリック、東方正教、イスラム教。2つの文字はラテン文字とキリル文字のことである。
このような国で戦後の長期間にわたって平和が続いたことは、チトーのバランス感覚とカリスマ性によるところが大きいとも言われる。1963年には国号をユーゴスラビア社会主義連邦共和国に改称。1974年には6共和国と2自治州を完全に同等の立場に置いた憲法が施行された。
1980年にチトーが死去すると各地から不満が噴出した。同年にコソボで独立を求める運動が起こった。スロベニアは、地理的に西ヨーロッパに近いため経済的に最も成功していたが、1980年代中ごろから、南側の共和国や自治州がスロベニアの経済成長の足を引っ張っているとして、分離の気運が高まった。クロアチアでは政府がセルビアに牛耳られていると不満が高まり、セルビアは自分達の権限が押さえ込まれすぎているとして不満だった。経済的な成長が遅れている地域は「社会主義でないこと」、経済的に発展している地域は「完全に自由化されていないこと」に対して不満があった。
東欧革命が起こって東欧の共産主義政権が一掃されると、ユーゴスラビア共産主義者同盟も一党支配を断念し、1990年に自由選挙を実施した。その結果、各共和国にはいずれも民族色の強い政権が樹立された。セルビアではスロボダン・ミロシェヴィッチ率いるセルビア民族中心主義勢力が台頭した。1990年から翌1991年にかけて、スロベニアとクロアチアは連邦の権限を極力制限し各共和国に大幅な自治権を認める改革を提案したが、セルビアとモンテネグロはこれに反発し、対立が深まった。
[編集] ユーゴスラビアの崩壊
1991年6月、スロベニア・クロアチア両共和国はユーゴスラビアからの独立を宣言した。セルビアが主導するユーゴスラビア連邦軍とスロベニアとの間に十日間戦争、クロアチアとの間にクロアチア紛争が勃発し、ユーゴスラビア紛争が始まった。十日間戦争は極めて短期間で終結したものの、クロアチア紛争は長期化し、第二次世界大戦中のウスタシャとチェトニックの関係を思わせるような相互による略奪、虐殺、強姦を繰り返す状態に陥った。1992年4月には、3月のボスニア・ヘルツェゴビナの独立宣言をきっかけに、同国内で独立に反対するセルビア人と賛成派のクロアチア人・ボシュニャク人(ムスリム)が対立し、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が起こった。同国はセルビア人・クロアチア人・ボシュニャク人の混住がかなり進行していたため状況はさらに深刻で、セルビア・クロアチア両国が介入したこともあって戦闘は泥沼化した。この間、1992年4月28日にセルビアと独立を実施しなかったモンテネグロによって人民民主主義、社会主義を放棄した「ユーゴスラビア連邦共和国(通称新ユーゴ)」の設立が宣言された。
クロアチア紛争、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は国連の調停やNATOの介入によって、1995年のデイトン合意によって漸く終結をみた。しかし、セルビアがこれらの地域で発生したセルビア人難民のコソボ自治区への殖民を強力に推進したため、コソボの民族バランスが大きく崩れた。これに危機感を抱いた多数派のアルバニア系の住民に抵抗運動が激化し、1998年独立強硬派のコソボ解放軍(KLA)と鎮圧に乗り出したユーゴスラビア軍との間にコソボ紛争が発生した。介入したNATO軍による空爆などを経て、2000年にユーゴスラビア軍はコソボから撤退し、和平協定に基づき国際連合コソボ暫定行政ミッション (UNMIK)が設置された。ミロシェヴィッチは大統領の座を追われ、ハーグの国際戦犯法廷に引き渡された。
一方、その人口規模の小ささから独立を選択しないで、一旦はセルビアとの連邦を選択したモンテネグロでも、セルビアに対する不満が高まった。人口比が反映された議会、政府は完全にセルビアによって運営される事になり、この間モンテネグロはセルビアと共に国際社会からの経済的制裁、政治的な制裁を受けることになった。これに対しての不満がモンテネグロ独立運動の端緒である。モンテネグロは過去の経験からコソボ紛争に対してはセルビアに協力しない方針をとり、むしろアルバニア人を積極的に保護するなどして、国際社会に対してセルビアとの差異を強調した。紛争終結後は通貨、関税、軍事コマンド、外交機関などを連邦政府から独立させ独立の外堀を埋めていった。これに対して欧州連合はモンテネグロの独立がヨーロッパ地域の安定化に必ずしも寄与しないとする方針を示し、セルビアとモンテネグロに対して一定期間の執行猶予期間を設ける事を提示した。両共和国は欧州連合の提案を受け入れ、2003年2月5日にセルビアとモンテネグロからなるユーゴスラビア連邦共和国は解体されゆるやかな共同国家となる「セルビア・モンテネグロ」が誕生した。セルビア・モンテネグロはモンテネグロの独立を向こう3年間凍結する事を条件として共同国家の弱体化、出来うる限りのセルビアとモンテネグロの対等な政治システムを提示したが、モンテネグロは共同国家の運営に対して協力的でなく独立を諦める気配を見せようとしなかった。
このため欧州連合は、投票率50%以上賛成55%以上という条件でモンテネグロの独立を問う国民投票の実施を認めた。2006年5月23日に国民投票が行われ、欧州連合の示す条件をクリアしたため、同年6月3日にモンテネグロは連合を解消して独立を宣言した。これをセルビア側も承認し、欧州連合がモンテネグロを国家承認したため、モンテネグロの独立が確定した。
これによってユーゴスラビアを構成していた6共和国はそれぞれ完全に独立する事になった。
[編集] 指導者
[編集] ユーゴスラビア王国の君主
すべてカラジョルジェヴィチ家。
- ペータル1世(1918年-1921年セルブ・クロアート・スロヴェーヌ王)
- アレクサンダル1世(1921年-1929年セルブ・クロアート・スロヴェーヌ王、1929年-1934年ユーゴスラビア王)
- ペータル2世(1934年-1941年ユーゴスラビア王、1941年-1945年枢軸国の侵略によりロンドン亡命)
[編集] ユーゴスラビア共産主義者同盟の書記長
- ヨシップ・ブロズ・チトー(1939年3月-1980年5月4日)
- ブランコ・ミクリッチ(クロアチア出身、1978年10月19日 - 1979年10月23日)代理
- ステヴァン・ドロニスキ(ヴォイヴォディナ出身、1979年10月23日 - 1980年5月4日)代理
- ステヴァン・ドロニスキ(ヴォイヴォディナ出身、1980年5月4日 - 1980年10月20日)
- ラザル・モイソフ(マケドニア出身、1980年10月20日-1981年10月20日)
- ドゥシャン・ドラゴサヴァツ(クロアチア出身、1981年10月20日-1982年6月29日)
- ミチャ・リビチッチ(スロヴェニア出身、1982年6月29日-1983年6月30日)
- ドラゴスラヴ・マルコヴィチ(セルビア出身、1983年6月30日-1984年6月26日)
- アリ・スクリヤ(コソヴォ出身、1984年6月26日-1985年6月25日)
- ヴィドイェ・ジャルコヴィチ(モンテネグロ出身、1985年6月25日-1986年6月26日)
- ミランコ・レノヴィツァ(ボスニア・ヘルツェゴビナ出身、1986年6月26日-1987年6月30日)
- ボシュコ・クルニッチ(ヴォイヴォディナ出身、1987年6月30日-1988年6月30日)
- スティペ・シュヴァル(クロアチア出身、1988年6月30日-1989年6月30日)
- ミラン・パンチェフスキ(マケドニア出身、1989年6月30日-1990年6月30日)
[編集] ユーゴスラビア連邦人民共和国、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国大統領
- イヴァン・リヴァル(1945年12月29日 - 1953年1月14日)
- ヨシップ・ブロズ・チトー(1953年1月14日 - 1980年5月4日)1963年から終身大統領
- ラザル・コリシェヴスキ(1980年5月4日 - 1980年5月15日)
- ツヴィイェチン・ミヤトヴィッチ(1980年5月15日 - 1981年5月15日)
- セルゲイ・クライゲル(1981年5月15日 - 1982年5月15日)
- ペータル・スタンボリッチ(1982年5月15日 - 1983年5月15日)
- ミカ・シュピルヤク(1983年5月15日 - 1984年5月15日)
- ヴェセリン・ドゥラノヴィッチ(1984年5月15日 - 1985年5月15日)
- ラドヴァン・ヴライコヴィッチ(1985年5月15日 - 1986年5月15日)
- シナン・ハサニ(1986年5月15日 - 1987年5月15日)
- ラザル・モイソヴ(1987年5月15日 - 1988年5月15日)
- ライフ・ディスダレヴィッチ(1988年5月15日 - 1989年5月15日)
- ヤネス・ドルノウシェク(1989年5月15日 - 1990年5月15日)
- ボリスラヴ・ヨヴィッチ(1990年5月15日 - 1991年5月15日)[1]
- スティエパン・メシッチ(1991年6月30日 - 1991年10月3日)
- ブランコ・コスティッチ(1991年10月3日 - 1992年6月15日)代理
[編集] ユーゴスラビア連邦共和国大統領
- ドブリツァ・チョーシチ(1992年6月15日 - 1993年6月1日)
- ミロシュ・ラドゥロヴィッチ(1993年6月1日 - 1993年6月25日)代理
- ゾラン・リリッチ(1993年6月25日 - 1997年6月25日)
- スルダ・ボゾヴィッチ(1997年6月25日 - 1997年7月23日)代理
- スロボダン・ミロシェヴィッチ(1997年7月23日 - 2000年10月7日)
- ヴォイスラヴ・コシュトニツァ(2000年10月7日 - 2003年3月7日)
[編集] 政治
1918年から1941年まではカラジョルジェヴィチ家による王制。
1945年以降はユーゴスラビア共産主義者同盟による一党独裁。ただし地理的に西ヨーロッパに近いことや、ソ連及びその衛星国と政治体制を差別化する必要があった事から、比較的自由な政治的な発言は許される風土があったとされる。
1989年にユーゴスラビア共産主義者同盟は一党独裁を放棄し、複数政党制の導入を決定した。翌1990年に実施された自由選挙ではセルビアとモンテネグロを除いて非ユーゴスラビア共産主義者同盟系の民族主義的色彩が非常に強い政治グループが政権を獲得した。
[編集] 地方行政区分
[編集] 1918年-1941年
詳細はユーゴスラビア王国の地方行政区分を参照
1929年、中央集権化政策の一環としてそれまでの33州(Oblast)を改編して10の州(banovina)を設けた。1939年、ツヴェトコヴィッチ=マチェク合意に基づき、サヴァ州、プリモリェ州全域とヴルバス州、ドリン州の一部をクロアチア自治州として設定した。
- ドラヴァ州(Dravska banovina)
- サヴァ州(Savska banovina)
- プリモリェ州(Primorska banovina)
- ヴルバス州(Vrbaska banovina)
- ドナウ州(Dunavska banovina)
- ドリン州(Drinska banovina)
- モラヴァ州(Moravska banovina)
- ゼタ州(Zetska banovina)
- ヴァルダル州(Vardarska banovina)
- ベオグラード市(Grad Beograd、パンチェヴォおよびゼムンを含む)
[編集] 1945年-1990年
詳細はユーゴスラビア社会主義連邦共和国の地方行政区分を参照
1945年以降は社会主義体制が敷かれ、民族、あるいは地域ごとの共和国からなる連邦制をとった。1974年には憲法を改正し、セルビア共和国の一部であるヴォイヴォディナ自治州とコソボ自治州を、各共和国とほぼ同等の地位へと昇格させた。
[編集] 1990年以降
1990年に初めて多党制が導入され、自由選挙が行われた。連邦の構成共和国で社会主義政策を放棄し、連邦からの離脱を望む勢力が伸び、ほどなくユーゴスラビアから独立していった。この過程で一連のユーゴスラビア紛争が起こった。
- スロベニア共和国(1991年6月に独立を宣言し、スロベニア共和国となった)
- クロアチア共和国(1991年6月に独立を宣言し、クロアチア共和国となった)
- マケドニア共和国(1991年に独立を宣言、1992年3月に完全独立し、マケドニア共和国となった。)
- ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国(1992年3月に独立を宣言し、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国となった。その後内戦に突入し、1995年12月和平に調印。)
- セルビア共和国(2003年に「セルビア・モンテネグロ」として共同国家を維持、2006年モンテネグロ共和国の独立に伴って独立し、セルビア共和国となった。)
- ヴォイヴォディナ自治州(セルビア共和国のヴォイヴォディナ自治州となっている。)
- コソボ・メトヒヤ自治州(2008年2月17日に独立を宣言し、コソボ共和国となった。)
- モンテネグロ共和国(2003年、「セルビア・モンテネグロ」として共同国家を維持、2006年分離独立しモンテネグロとなった。)
[編集] 地理
[編集] 河川
[編集] 山脈
[編集] 経済
1980年代の末期まで、ユーゴスラビアではソ連や他の社会主義国家とは一線を画した経済方式を導入しており、この経済方式を自主管理方式と呼んだ。ユーゴスラビアでは生産手段である、工場や工業機械の他に、経営方針も労働者によって管理されるものとされ、その範囲内で経営責任者が労働者によって募集されるということもよくあった。
また西側資本の受け入れにも積極的であり、西ドイツ(当時)のスニーカーメーカーだったアディダス社などがユーゴスラビアに工場を構えていた。
[編集] 国民
セルビア人、クロアチア人が多数。このほかに自らの共和国を持つ存在としてスロベニア人、モンテネグロ人、マケドニア人があった。ボシュニャク人も独自の共和国としてボスニア・ヘルツェゴビナを持っていたが、同共和国内にはセルビア人・クロアチア人も多く居住しており、ボシュニャク人の人口は過半数に達しなかった。さらにアルバニア人のためにコソボ自治州、ハンガリー人のためにヴォイヴォディナ自治州が設けられた。イタリア人も少数ながら一定の人口を擁していた。これらの民族のいずれも、ユーゴスラビアで過半数を占めることはなかった。ユーゴスラビアが存在した約70年近くの間にこれらの民族の間での混血が進み、自らを「ユーゴスラビア人」であると名乗る者もあった。
宗教はスロベニア、クロアチアがカトリック、セルビア、モンテネグロ、マケドニアが正教会、更にイスラームがあった。
言語は共通語としてセルビア・クロアチア語があった。現在では各共和国でそれぞれの言語での教育が行われているためセルビア・クロアチア語の共通語としての意義は消滅しているが、ユーゴスラビア構成諸国家のある一定の年齢以上のものはほとんどがセルビア・クロアチア語を解する事ができる。又セルビア・クロアチア語はラテン文字とキリル文字二つの正書法があったが、ユーゴスラビアではこれら二つの文字は等しく扱われ、公文書や新聞などでは二つの文字で併記されていた。
[編集] 文化
[編集] スポーツ
詳細はユーゴスラビアのスポーツを参照
[編集] サッカー
サッカーの強豪国のうちの一つだった。ワールドカップには1930年の第一回大会から出場している。ワールドカップでは1930年大会の3位(ただし3位決定戦は無し)、1962年大会の4位等がある。ヨーロッパ選手権では1960年大会、1968年大会での準優勝がある。年齢別の大会では1987年のワールドユースでの優勝がある。
1960年代以降、ユーゴスラビアが国際的なタイトルに最も近づいたのはドラガン・ストイコビッチ、デヤン・サビチェビッチ、ロベルト・プロシネチキ、ズボニミール・ボバン、スレチコ・カタネッツ、ダルコ・パンチェフを擁した1980年代後半になってからで、監督はイビチャ・オシムだった。しかし1990年5月13日には国内リーグのディナモ・ザグレブ対レッドスター・ベオグラード戦で試合開始前から暴動が発生するなど民族対立が持ち込まれて混乱を来たし、代表チームの結束も危ぶまれたものの、1990年イタリア大会では準々決勝で一人少ないながらも優勝候補だったアルゼンチンに120分間でドロー。PKで敗退したものの、1992年のヨーロッパ選手権の優勝候補に推す者が後を絶たないほど強烈な印象を残していった。
しかし一方でユーゴスラビアの解体が進んでおり、1991年までに行われたヨーロッパ選手権予選を勝ち上がったものの、同年スロベニアとクロアチアがユーゴスラビアを離脱。更に本大会直前になってボスニア・ヘルツェゴビナもユーゴスラビアを離脱。ユーゴスラビア連邦軍がサラエボに侵攻するにあたって監督のイビチャ・オシムが辞任。国連はユーゴスラビアに対しての制裁を決定し、これに呼応して国際サッカー連盟、欧州サッカー連盟はユーゴスラビア代表の国際大会からの締め出しを決定。既に開催国であるスウェーデン入りしていたユーゴ代表は帰国し、ユーゴスラビアの解体と共にユーゴスラビア代表も解体してしまった。この大会の優勝はユーゴスラビアに代わって出場したデンマークだった。
旧ユーゴスラビア構成諸国家にも、強豪としてのユーゴスラビアの伝統は継承され、1998年フランスワールドカップでは、クロアチアが3位に入り大きな驚きを呼んだ。更にサッカーが盛んとは言えないスロベニアも2000年のヨーロッパ選手権本大会、2002年日韓ワールドカップと続けて本大会に出場しこれも大いに驚かされた。こうしたユーゴスラビアの強さの秘密の一つとしてサッカーをアカデミックに捉える試みが行われた事が上げられる。大学の講座の一つとしてサッカーのコーチングが教えられており、旧ユーゴスラビア出身の監督の多くはこれらの修士号や博士号を持っている場合が多い。また、旧ユーゴスラビア出身のサッカー監督は極めて多いと言える。
[編集] オリンピック
サッカー以外でもユーゴスラビアはスポーツ強国として知られ、近代オリンピックの重要な参加国となった。夏季オリンピックには建国後最初の大会になる1920年のアントワープオリンピックから参加した(前身のセルビア王国としては1912年のストックホルムオリンピックで初参加)。1924年のパリオリンピックではレオン・シュツケリが男子体操の個人総合と種目別の鉄棒で、同国初のメダルとして金メダル2個を獲得した。
第二次世界大戦後もオリンピックへの参加を続け、1984年には社会主義国初となる冬季オリンピックとして、招致活動で札幌市を抑えてサラエボオリンピックを開催した。この大会ではユーレ・フランコがアルペンスキーの男子大回転で銀メダルを獲得し、同国初の冬季メダリストとなった。また、同年に行われ、ソ連や東ヨーロッパ諸国が集団ボイコットを行ったロサンゼルスオリンピックにも参加した。この時のメダル獲得総数18個(金7銀4銅7)がユーゴスラビアのベストリザルトで、その次の1988年ソウルオリンピックでも12個(金3銀4銅5)のメダルを獲得した。
有力種目はハンドボールと水球だった。男子ハンドボールはオリンピック種目に復活した1972年のミュンヘンオリンピックで金メダルを獲得し、その後もメダル争いの常連となった。男子水球はロサンゼルス・ソウル両大会で2連覇を達成し、ハンガリーと並ぶ世界最高峰の実力を見せつけた。
しかし、オリンピック活動も各共和国の独立運動の影響を受けた。1992年のバルセロナオリンピックは、男子サッカーのヨーロッパ選手権と同様、ユーゴスラビアとの文化・スポーツ交流を禁じる国連の制裁対象となった。独立した各共和国の参加は認められたが、ユーゴスラビアの参加は不可能となった。ただし、国際オリンピック委員会(IOC)は救済措置を検討し、個人種目に限ってユーゴスラビア国籍の選手を「個人参加」として五輪旗とオリンピック賛歌の下で戦う事を認めた。この個人参加選手は射撃で銀1銅2の計3個のメダルを獲得した。また、多くの選手がユーゴスラビアを離れたために競技力の低下が顕著となり、特に冬季大会では主力選手がみなスロベニアに所属したため、1994年のリレハンメルオリンピックへの参加を見送った。内戦や空爆でスポーツ施設も多く被害を受け、経済制裁によってそのメンテナンスも難しくなった。
ユーゴスラビアは1996年のアトランタオリンピックで正式メンバーとしてオリンピックに復帰し(金1銀1銅2で計4個のメダル)、2000年のシドニーオリンピックがユーゴスラビアとして最後の参加となった。この大会では男子バレーボールの金メダルなど、合計3個(金1銀1銅1)のメダルを獲得した。
[編集] 関連項目
- ユーゴスラビア紛争
- ボスニア紛争
- セルビア・モンテネグロ
- セルビア
- ユーゴスラビア共産主義者同盟
- ユーゴスラビア人
- ユーゴスラビア辞書協会百科事典
- バルカン半島の歴史
- ヨーロッパ史
- アンダーグラウンド (映画)
- 石の花 (坂口尚)
- バルカン政治家
- ユーゴスラビア (小惑星)(ユーゴスラビアに因んで命名された小惑星)
- ロヴロ・フォン・マタチッチ
- ユーゴノスタルギヤ: 無くなったユーゴスラビアに対する懐古感情。
[編集] 参考文献
- 柴宜弘『新版世界各国史(18) バルカン史』山川出版社
- ディミトリ・ジョルジェヴィチ『バルカン近代史』刀水書房
- 柴宜弘『図説 バルカンの歴史』河出書房新社
- スティーヴン・クリソルド『ユーゴスラヴィア史』恒文社
- 柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』岩波書店
- ミーシャ・グレニー『ユーゴスラビアの崩壊』白水社
- 徳永彰作『モザイク国家 ユーゴスラビアの悲劇』筑摩書房
- 千田善『ユーゴ紛争 多民族・モザイク国家の悲劇』講談社
- 千田善『ユーゴ紛争はなぜ長期化したか 悲劇を大きくさせた欧米諸国の責任』勁草書房
- マイケル・イグナティエフ『軽い帝国 ボスニア、コソボ、アフガニスタンにおける国家建設』風行社
- 最上敏樹『人道的介入 正義の武力行使はあるか』岩波書店
- 高木徹『ドキュメント 戦争広告代理店』講談社
[編集] 外部リンク
- Yugoslavia
- Breakup of Yugoslavia
- Bosnia and Herzegovina
- History of Bosnia and Herzegovina
- War in Bosnia and Herzegovina
- 最後の国王ペータル2世の皇太子アレクサンダル・カラジョルジェヴィチの公式ウェブサイト(英語)
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